そばに居ることを続ける、ということ「にじいろカルテ」第3話

「記憶を失う」ことを題材にした映画やドラマは多い。

日本人であれば記憶喪失を冗談で装う際に「ここはどこ?私は誰?」とすらすら言えてしまうほどに定型文化したセリフもあるくらいだ。

 

だが何度題材にされてきてもいまだに創作側のテーマとして取り上げられるのは、記憶喪失という現象がとても怖いものだからではないだろうか。

 

今回は安達祐実さんが、まだら認知症という、ところどころ記憶が欠ける病を抱えている雪乃役を演じている。

真空先生が赴任する前から、村では「対処療法」として幼馴染が雪乃の人生のあらすじを教えてくれたり、旦那さんが思い出のカツサンドを作って待っていたりして、日常を取り戻そうとする。

 

決して雪乃を急かさず、焦らせず、雪乃の病を「そこにあるもの」として受け入れている村があった。そんな村を朔先生は「すっげぇんだぞ、この村は」とほめる、というよりは驚嘆して評価していた。

 

きっとここに来るまでに、当人たちでないとわからない苦労がたくさんあったと思われる。

苦労には雪乃にどう接するか考えたり、何をしてあげたらよいか、といった行動の面も数多く上げられるのだろうが、まずは友達である、嫁である雪乃に「忘れられている」という悲しみを腑に落とすことも含まれるのではないか。

 

何気なくよく見かける言葉に「思い出話に花が咲いた」があるが、まずこれが出来ない。

「そういえば、3年前に旅行に行ったときにさぁ…」

「あれは何年前だったかな、そう、みんなでイタリアンを食べに行ったときに…」

仕事以外で食事に行くときなど、ほぼ思い出話しかしていないんじゃないか、と思えるくらい思い出話は話題に事欠かず、何かを思い出すための基準にもなり、思想や個人の考え方を作るための基礎にもなっている。

 

だから人は記憶を失うことが怖くてしょうがないのだ。

 

また逆に、全く記憶にないのに「ほらこの前さぁ、〇〇って言ってたじゃん!」とか言われるとそれもそれで恐怖なのだ。いつ、どうして言ったのか、それは本当に私の言葉なのか、いや誰かが私を騙っていやしないか、など必死に自分の記憶と答え合わせする。

そこから想像すると、雪乃さんの恐怖は計り知れない。

冒頭で慌てて取り乱して病院に入ってくるのも無理はないのだ。

自分の言動の正誤どころか、いつの間にか親は亡くなり、好みの顔ではない男性と所帯を持っていることを他人から知らされ、それが現実だと言い聞かせられたところで、どこまで納得できるものか。

急に足元の地面が崩壊するような気になるのではないだろうか。

 

だがこの村はお互いの恐怖を共有し、ともにそれを融解させることで病と付き合っているように思える。

私はそのようなコミュニティに属したことがないのだが、現代ではなかなか作ることが難しいことに思える。実際にあるのだろうか、こんな村。もし「え、私のいる街ってこんな感じだよ」といえる方がいたなら、その人には堂々と自慢してほしい。それは決して当たり前でなく、貴重で、ひどく人から羨ましがられることであるのだから。